母 静香の奮闘日記

 

生まれた時から病気らしい病気もせず、元気だけがとりえの我が家の女の子が、

ある日突然、難病と言われる病に襲われ生活が一変し何が何だか頭を殴られたように真っ白に。

医師からの病名の宣告に涙しか出ませんでした。

「どうして、どうして、どうしてうちの子なの?」毎日、毎日頭をいよぎるのは「どうしてうちの子なの?」

って感じで、病気を受け入れるまでには相当時間がかかりましたが、本当に救われたのは本人(明穂)が

病気の事は何も聞かず、文句1つ言わず立ち向かってくれた事です。

大人でも痛い髄注検査、薬の副作用で髪の毛が抜けた時も「また、生えるだけ」という一言で立ち直り、

今度は帽子に目をむけ、カタログを集めては「こんなの、こんなのは!?」なんて言っていました。

好中球が下がるとスグ菌にやられてしまうので、無菌室というビニールのカーテン覆われた部屋で過ごすしかなく、

部屋から出る事が出来たのは、1年の入院で4ヶ月。

後の8ヶ月は一歩も外室する事なく部屋の中で頑張ってました。

テレビで「伊東家の食卓」を見ては、材料を集めてやってました。

同じような部屋の作りで、誰が自分と同じような病気だとわかり、そのお母さんと話をする事で

私も随分と気持ち的に解ってもらったりと、楽に過ごす事ができました。

 

学校の行事がある度に「いつには帰れる?」と聞いてきても「もう少しな」と言うと、それ以上は何ひとつ聞かなかった。

学校の様子を熱心に伝えてくれた担任の先生も、遠い所何度も足を運んでくれました。

クラスの友達からの手紙をお見舞いにもってきてくれました。

外室できない本人には何よりの楽しみが、お見舞いに来てくださる人でした。

私は、何かと外へ出たり家へ帰ったりとしていましたが、あの子にしてみれば大変な思いだったと思います。

病院で病気と闘っているあの子が一番なのは分かっていても、

家に残してきたお兄ちゃんの事も気になり、あっちもこっちもという思いでした。

お兄ちゃんは、私の兄の方へ預かってもらう事になり、最初の半年は兄の家へ、

後の半年は家に帰り一人で生活をするというので、家から病院まで2往復から3往復してきました。

この一年間の生活を支えたのは、本人はもちろんですが本人の周りの友達、先生、

そして私の周りの親、兄弟がいればこそでした。

入院中に「誰もが苦しみを乗り越えた後には、本人も成長し、私も本当に強くなれるから」と言われましたが、

「成長もしなくていいし、私も強くならなくていいから、病気にならない方がどれほどいいか」と何度思った事か。

神様のイタズラにしては、どれほどの罰が当たれば許してもらえるのかと聞いてみたかったり、

今まで私達の家族が何をしたらからこんな病気になったのか、誰か教えてくださいと毎日思っていました。

闘病生活を終え得られた事は、私の大きな自身となる事と思います。

 

 

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